「エネルギー・環境に関する選択肢」に対するパブリックコメントというものに参加しました。
内閣府が広く国民の声を聞くという趣旨で行なっているものですが、その割に告知がほとんどされていないので、こういうものがあるということすら知らない人が多いのではないでしょうか。
内容と記入についての注意点はこちらのサイトに詳しいですので興味があればご一読ください。
さて、わたしは原子力否定派です。
原発を無くすと産業が後退する、日本経済がダメになるなどいろいろ言われていますが、例えそうであったとしてもどこかで痛みを引き受ける選択をしなければならないのではと思っています。
そのどこかがどこなのか、というのは仮に経済及び産業が一時的にダメージを受けても回復できる余地があるポイントでなければならないと思いますが、今すでにもうそのデッドライン来ているような気がして仕方がありません。
現実問題、わたしには子供がいませんし、将来的にも自分の子供を持つ確率は低いでしょう。
ですからもしかしたらそのデッドラインまでに自分の寿命が尽きるかもしれません。その間に福島レベルの事故がおこる確率がどれだけあるかもわかりません。希望的観測に乗っかって、起こるかどうかも分からない災害のために、わざわざ意見表明したり、その結果自分が不自由な思いをするハメになる必要はないのかもしれない….と思うこともあります。
ですが結局わたしはロマンチストなのです。わたしが愛した音楽を100年後、200年後の人々がまた愛して欲しいと願ってしまうのです。
さまざまな電子媒体に記録された彼らの活動記録を眺め(そこにはもしかしたらわたしのこのブログも含まれているかもしれません)、「嗚呼、リアルタイムに彼らを体験できる時代に生まれたかった!」と100年先、200年先のファンに悔しがられたい、と思ってしまうのです。
これから先原発はどんどん老朽化していき、そして最近の天候や災害といえば”未曾有の””想定外の”という枕ことばがつくものばかり。増え続ける廃棄物や廃炉となった原発の処理や管理、事故が起こった場合の補償にどれだけのお金がかかるのでしょうか。電気代という名前では無くても結局それらが税金からでていくことになるのであれば、私たちはそれだけ高い買い物をしているのと同じです。
わたしにはマイナスの雪だるまが転がって行くようにしか思えないのです。
確かに自分が投げた雪玉ではありません。転がり落ちていく雪玉をみて見ぬふりをすることも出来ます。しかしその先で雪玉に自分の大切なひとが押しつぶされてから嘆いても遅いのです。
チェルノブイリから20年、目をそらし続けた結果が福島です。これからの20年、どちらの方向を向いていくのか。原子力に頼らない社会を目指してもらいたいと願っています。